大原麗子さんの葬儀・お別れの形 | 多くの女優仲間が偲んだお別れの会
- 2021年07月16日
お葬式手配の「よりそうお葬式」
絶世の美女とも称された昭和の美人女優、大原麗子さん。
2009年8月3日お亡くなりになり(享年62)、死因は不整脈による内出血でした。
一人暮らしをしていた都内の自宅で、3日後の8月6日に実弟と警察署員に発見された大原さんの死は、孤独死として報道されました。
身内による密葬後、森光子さんらが発起人となり盛大なお別れの会が催されています。
最初の結婚相手である渡瀬恒彦さん、2度目の夫の森進一さんなども参列するなど、関係者と一般の参列者約1000人が駆けつけたお別れの会となりました。
大原麗子さんのプロフィール
1946年 東京都文京区生まれ。父は老舗和菓子屋。
幼い頃に両親が離婚し、大原さんは母と暮らし、弟は父親と暮らす。
スカウトで芸能界入り。
1964年 テレビドラマ「幸福試験」(NHK)の出演でデビュー
1965年 東映に入社。以降、高倉健の「網走番外地」やシリーズ数々の映画に出演
1971年 渡辺プロダクションに移籍、以降はテレビドラマを中心に活躍
1973年 俳優の渡瀬恒彦と結婚
1978年 離婚 同年、「男はつらいよ」シリーズのマドンナ役1度目の出演
1980年 森進一と結婚
1984年 破局 同年、「男はつらいよ」シリーズのマドンナ役2度目の出演
1989年 NHK大河ドラマ「春日局」に主演。平均視聴率32.4%
1996年「SMAP×SMAP」の名物コーナー「BISTRO SMAP」の第1回目ゲストとして出演
CMにも多数出演し、特に1980年~1990年放映の、「すこし愛して ながーく愛して」のコピーで知られたサントリーCMシリーズが有名。
大原麗子さんの最期
仕事から遠ざかった最後の10年
難病であるギランバレー症候群を最初に診断されたのが最初の結婚の頃(1973年)です。
筋肉を動かす運動神経に障害が出てきて手足に力が入らなくなる難病で、症状は良くなっていたものの、後に再発したようです。
また、1993年頃に乳がんの手術を受けています。
トップ女優として人気でしたが、主役にこだわって大原さん自身が仕事を断ることも多かったようです。
そのためか、最後の10年は女優としてほぼ活動していません。
特に、仕事から遠ざかる大きなきっかけとして言われているのが、1999年に右目の二重の手術で顔が腫れ上がり、映画出演をキャンセルせざるをえなくなったことです。
そこからさらに、彼女の仕事が減っていったそうです。
最後のドラマ出演は2004年
2004年、大原さんの最初の夫だった渡瀬恒彦さんが、自身の主演ドラマ「十津川警部シリーズ」大原さんをゲスト出演させています。これが大原さんの遺作となりました。
芸能活動が減っていくと、女優仲間などへの一方的な長電話が増え、森光子さん、朝丘ルリ子さんをはじめ複数の女優が、それが原因で縁を切ったとメディアで語っています。
最期の様子
大原麗子さんは、3億円の豪邸に一人暮らしだった、と報道されています。
以前はそのご自宅で介護が必要な母親と一緒に住んでいましたが、亡くなる前年の2008年は、大原さん自身が自宅で転んで手首を骨折していたなどもあってか、2009年3月頃から母親を介護施設に預け、お一人になったそうです。
しかし、両親が離婚後に離れて暮らしていた実弟とは頻繁に交流があったようで、甥をかわいがり、月に1~2度は一緒に食事をしていたともいいます。
弟と警察署員に発見される
2009年8月3日、不整脈による内出血を起こして倒れて3日後の8月6日、連絡がとれないため訪れた弟と警察署員に発見されました。
携帯電話まで3メートルと近づき、手を伸ばしている様子だったという、最期の様子が報道されています。
大原麗子さんの密葬、お別れの会
自宅での密葬
大原麗子さんの葬儀は親族や知人のみの密葬で、2009年8月8日、自宅で執り行われました。
芸能人の弔問はなかったものの、弔電や花などが届けられたようです。
遺影の様子のみ公開
密葬ではあったものの、自宅のリビングに置かれた遺影の様子は公開されています。
弟が「姉が生前、死んだらこうしてほしいと頼んでいた通りにレイアウトした」と語ったその様子は、大きな鏡台に置かれた遺影、その周囲に高倉健さんからの弔電、森光子さんや元の事務所、渡辺プロダクションの渡辺美佐会長らからの供花が囲んでいました。
美空ひばりさんからのプレゼントなど
また、仲が良かったという美空ひばりさんからプレゼントされたディレクターチェア、マリー・ローランサンなどの大原さんお気に入りの絵が4枚、さらにデビュー直後から10年ほど前までの写真9枚が飾られていました。
女優仲間が発起人となった、お別れの会
大原麗子さんが亡くなられて間もなく、「お別れの会」が2009年8月23日東京都港区・青山葬儀所で執り行われました。
以前は姉のように慕われていたという女優の森光子さんを発起人代表、そして浅丘ルリ子さん、プロデューサーの石井ふく子さんらも発起人となった「大原麗子さんお別れの会」実行委員会が主催しました。
バラやトルコキキョウの花祭壇
祭壇は「花祭壇」で、大原さんが藤色が好きだったということから、トルコキキョウを3,000本、他に白のスプレーマム(菊)やバラ、カーネーションやカスミソウなどをあわせて1500本ほど使い、白と紫とで美しく落ち着いた印象のアレンジで遺影を囲んでいました。
その遺影には、大原さんが主演したNHK大河ドラマ「春日局」の番組宣伝用の写真が選ばれました。1988年に篠山紀信により撮影された写真で、本人がとても気に入っていた1枚だそうです。
他には会場の回廊にあたる部分に、亡くなったとき大原さんの寝室に置いてあったという写真19点が展示されていました。
二部構成のお別れの会
大原麗子さんのお別れの会は、一部を「関係者の部」とし、二部は「一般の部」として無宗教献花方式で行われました。
一部もシンプルな式次第で、発起人の森光子さんの弔辞、友人代表の浅丘ルリ子さんの弔辞、映画やテレビ、CMなど作品の数々をまとめたメモリアルVTR上映、弔電披露、石井ふく子さんの発起人謝辞、献花という進行でした。
「愛されていた」と語りかけた森光子さんの弔辞(発起人代表)
姉のように慕われていた森光子さんは「美しくて才気があって、でも寂しがりやでみんなにキツいことを言ったりもするハキハキした女優さん。とても素晴らしい女優人生だったと思います」と語りかけました。
「でも病魔というものが麗子ちゃんには早くついてまわった。難病にとりつかれてから心に傷を負ったようにとても辛い日々が続いたことと思います」
そして、多くの参列者が来てくれたと喜び「麗ちゃん。あなたこんなに愛されていたのね。とても辛かった思いでもあるでしょうけど、これから幸せになってください」と故人をいたわりました。
率直さが絆の深さを感じさせた、浅丘ルリ子さんの弔辞(友人代表)
浅丘ルリ子さんは、大原さんとは30年来の友人で「麗子を浅丘さんのうちの家族にして。一番下の妹にして」と言っていたと明かし、家族ぐるみの付き合いもあって浅丘さんのご両親や姉の最期にも立ち会ってくれたと語りました。
しかし最後の数年は一方的な長電話に苦しめられ、何度も言い争いになって距離を置いていたとも語ります。
「あなたを大切に慈しんでくれた身内の方、友人たち、すばらしい仕事仲間たちの厚意を一切受け付けず、拒否し続けるあなたの気持ちが私には分かりませんでした。」
そして現在の心情を吐露していきます。
「あなたがどんなに拒否しても『姉』としてちゃんと受け止めてあげるべきだった。本当にごめんね麗子」
「今こうして再びあなたに話しかけていると、もう何のわだかまりもありません。優しさ、かしこさ、可愛らしさだけを思い出しています」
最後は「私の妹、麗子へ。心安らかに眠ってください」とお別れの言葉を伝えていました。
約1000人の「参列者」
関係者約400人、一般参列者約600人と約1000人もの方が、大原麗子さんのお別れの会に参列しました。
主な参列者:渡瀬恒彦、森進一、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、井上順、堺正章、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊(敬称略、順不同)
森光子さんは「ああやって(渡瀬さんと森さんが)いらしただけでもすごいと思いました。
お2人を選んだことが間違いではなかったと、本当に今日思いました。幸せです彼女は」と、とても喜んでいたそうです。
大原麗子さんの葬儀・お別れの形
世田谷区のお寺で眠る大原麗子さんのもとには、お別れ会に参列できなかった、尊敬する兄と慕った高倉健さんが毎年墓参りを行っていたそうです。
大原さんの寝室のDVDプレイヤーの中には、高倉健と共演したテレビドラマ「チロルの挽歌」のDVDが入っていたともいわれています。
晩年は我を失う様子で周囲を混乱させたものの、多くの人に愛された人生の締めくくりにふさわしい「お別れの会」で送られた大原麗子さん。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
人生の最後を考える:終活のすすめ
著名人のお別れの形をロールモデルとして様々紹介していますが、
死はいずれ誰しもに訪れることです。
ご自身や家族が突然のお別れになってしまわないとも限りません。
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