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法相宗ってどんな宗派?知っておきたい特徴を徹底解説!

  • 2022年06月02日

653年に日本に伝えられた法相宗は、インドの思想を継承して生まれた、唐時代の中国の宗派の1つです。
当時の僧侶にして翻訳家(訳経僧)であった玄奘によって伝えられた後、弟子である慈恩大師・基によって開かれました。
日本の仏教として発展したのは同じく玄奘の弟子である道昭の功績によるものであり、8〜9世紀にかけて奈良仏教の1つとして隆盛を極めた宗派でもあります。ここでは法相宗の特徴や思想、考え方や修行方法などについて見ていきましょう。

法相宗の基本的な特徴って?

法相宗はインド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承したことから、「唯識宗」という別名を持つ宗派です。
また応理円実宗や慈恩宗といった呼び名もあり、日本国内では奈良仏教のうちの1つとされています。
この宗教は唐で生まれたものですが、主な宗旨はインドの弥勒菩薩や無着菩薩、世親菩薩によって大成されたものが主体です。この後さらに、護法菩薩の手によって1つの唯識教学へと発展を遂げました。西遊記でも知られる唐の僧・玄奘が、7世紀初頭にインドへと渡り17年間に渡る研鑽の末にこの唯識教学から仏教教義を修得します。
その後に唐へと戻った玄奘は翻訳に全力を注ぎ、この教義を広める役割を弟子である慈恩大師へと託しました。慈恩大師は師である玄奘より伝授された法統を整理し、645年に法相宗の開創へと至ったのです。

法相宗が日本へと伝わったのは、飛鳥時代(653年)と伝えられています。
日本の僧の1人である道昭が唐へと留学し、玄奘に師事してその教えを受けました。
道昭の帰国後飛鳥法興寺にて広め、同様に入唐した智通も5年後の658年に帰国して元興寺にて法相宗を広めています。
さらには、道昭はのちに大僧正となる行基にもこの教えを伝えており、寺院や橋の建設などさまざまな功績を果たす行基の礎となりました。

法相宗は奈良仏教系の1つ

7世紀半ばに道昭によって日本国内へ伝えられ広まった法相宗ですが、大きく隆盛したのは奈良時代(8世紀)以降という記録が残っています。
奈良仏教系の1つに数えられ、民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教と比べて、学術的要素が強く出ているのは大きな特徴と言えるでしょう。
特に奈良仏教は日本の仏教の歴史において重要な位置を占めており、後世の仏教の基盤としてだけでなく社会における仏教の地位を築き上げたといっても過言ではありません。
天台宗と真言宗からなる平安仏教が「平安二宗」と呼ぶのに対して、奈良仏教は法相宗をはじめ華厳宗や律宗など6つの宗教からなるため、「南都六宗」とも呼ばれています。ここでの「南都」とは、奈良時代の中心都市であった平城京を指したもので、後の時代の都・平安京から見て南方に位置することから付けられた名称です。
これら6つの宗派は、律令国家の庇護のもと仏教の教理の研究を中心に行うものでした。そのため、宗教上の実践行為に関しては鎮護国家という理念の下で行われ、呪術的な要素も含まれています。
ただ、法相宗の中でも特に道昭が広めた教えは他の宗派と性格が異なり、国家体制の仏教活動だけではなく全国各地に赴いて、井戸を掘ったり橋を架けるといった活動を通して民衆に仏教を広めていきました。
行基が後年寺院や池の創設をしながら民衆への布教活動を行ったのも、師であった道昭の影響とされています。

法相宗の考え方とは一体?

法相宗の目的は、伝来元であるインドの思想・「唯識論」を研究することです。唯識論の「唯識」とは、「ただ(唯)心(識)だけが世界に存在する」という意味を持つ言葉で、「この世の中にある全てのものに関しては心が創り出したものである」という考えを展開します。
また宗派の名前である「法相」は、存在そのもののあり方についてを指し示す単語です。

人間は肉体など物理的な存在だけでなく、心理的な存在も存在現象として認識しているのではないかという唯識論の研究を発展させ、最終的にはこの世の全ての存在が「識(心)」であると考えることが法相宗の極意とされています。
たとえば、私たち人間は自分自身の指を見た時に、「これは自分の指である」と心の中で認識するのが普通です。
この時に「自分」と「指」の2つの単語を分けて考えるならば、「指」や「手」は自分の目で視認することができるため、物理的な存在として認識できます。
しかし、前者である「自分」という単語は目で認識することができず、言葉の存在つまり心(識)の中だけで存在するものです。
これらを踏まえて、法相宗では仏教の根底に流れる発想である無我の境地、「自分は存在していない」という考えに至るとされています。このような教えは数ある宗派の中でも珍しいもので、哲学でありなおかつユニークな考え方として広く認知されている宗派です。

法相宗と北法相宗の違いって何?

北法相宗についている「北」は、法相宗が日本に伝わってきた時のことに由来しています。
日本における法相宗の興りは、奈良の法興寺の僧・道昭が653年に唐へと留学に行き、唐の僧・玄奘より法相の教えを学んだことがきっかけです。
直接法相の教えを授かった道昭は帰国後、法興寺にて教えを広めました。
710年に平城遷都が行われ、法興寺の後身である元興寺が平城京に建てられます。法相の教えは元興寺へと移り、これを「南伝」と呼ぶようになりました。
そして717年には同じく奈良の興福寺の僧・義淵の弟子が唐へと留学し、唐の法相宗の宗祖である慈恩大師の弟子に教えを受け、帰国して興福寺で教えを広めます。
元興寺は現在の奈良市の南部にあたり、興福寺はそれより北に位置しているため興福寺の法相は「北伝」と呼ぶようになりました。北法相宗の「北」の文字は、北伝の法相の正統な流れであることを意味しています。

現存する北法相宗の寺院は、興福寺の末寺である京都・清水寺です。
清水の舞台で有名な清水寺は、奈良時代末期である778年に建立されました。北法相宗は南都奈良の法相宗に対して、北都である京都での法灯を掲げるための宗派として生まれたものです。
しかし、江戸時代末期の1868年に発令された神仏分離令および廃仏毀釈により、興福寺は取り壊されることとなりました。また、南都奈良の法相に関しては華厳宗の寺院へと移行することを余儀なくされ断絶したため、日本の法相宗として知られているのは本来末寺であった清水寺の北法相宗です。
このことから、日本国内での基準で考えるならば、法相宗と北法相宗は遜色はないものと考えるべきであるとされています。

法相宗のお寺はどこ?

法相宗のお寺は、飛鳥時代から奈良時代にかけて興ったこともあり、奈良県に多く存在しています。
平城京があったとされるのが大和郡山市から奈良市にかけてのエリアで、特に奈良市には法相宗の寺が非常に多いです。
大本山とされているのは、奈良市西ノ京町にある薬師寺と、五重塔がすぐ横にそびえ立つ同市登大路町の興福寺となります。
薬師寺は天武天皇によって680年に発願され、697年に本尊開眼して飛鳥(現・明日香村)にて完成したのち、710年の平城遷都の折に現在地へと移されました。
興福寺は669年に建てられた山階寺を基に、672年に飛鳥へと移して完成したのち、同じく710年に現在の場所へと移されています。現在も大本山とされていますが、興福寺は廃仏毀釈によって江戸末期に取り壊されており、今の姿は明治の世に復元されたものです。興福寺の敷地内にある菩提院も、同じく法相宗のお寺とされています。
また生駒郡斑鳩町にある法隆寺は、この2つの寺院に並んで3大本山と称されていましたが、第二次世界大戦後の1950年に聖徳宗を名乗って離脱しています。奈良市内にはこの他に、宝積院も法相宗のお寺の1つです。

奈良県の他、隣接する大阪府にも法相宗のお寺は存在しています。
いずれも大阪市内であり、東住吉区の東部市場駅付近にある山王寺、生野区の今里駅付近のエリアにある大信寺がそれぞれ該当するお寺です。

法相宗の修行方法

法相宗の修行方法は、玄奘の弟子であり宗祖である慈恩大師によってまとめられた五重唯識観があります。

五重唯識観とは5つの瞑想で構成された修行方法のことです。
1つ目の瞑想で遍計所執性の幻を捨てることができ、2~4つ目の瞑想において依他起性が深められるとされています。そして、5つ目の瞑想では円成実性だけが現れるというのがこの修行法の極意です。

遍計所執性とは、法相宗の源流であるインドの唯識論における仏教用語であり、分別によって構成された性質を指します。世俗的な生活で経験されるあらゆる事象は、主観の妄執によって構想されるものであり、1つ目の瞑想によって捨てられる幻とはこの主観の妄執と言えるでしょう。

依他起性は同じく唯識論で依存して生起する性質を指し、万物は主観の作用の中にこそ存在し、因果関係によって他者に依存して生起していることを言います。2つ目から4つ目にかけての瞑想で、一切の存在が縁によって起こったものとする考えが深められるということです。

円成実性とは円満と完成、そして真実の性質のものという意味を持つ仏教用語であり、5つ目の瞑想によって文字通り円満と真実を悟ることができます。1つ目の瞑想で虚妄の存在、2〜4つ目の瞑想で相対的存在が浮き彫りとなり、この両者の無自性を正しく認識することで修行の完成、つまり絶対的様相である円成実性が浮かび上がるという訳です。

さとりを開くまでの修行期間

5つの瞑想からなる五重唯識観での法相宗の修行にかかる時間は、「三阿僧祇劫」と言われています。
ここで用いられている単語のうち「劫」は4億3200万年もの果てしない年月を表すものです。
次に「阿僧祇」は10の56乗、つまり0が56個も並ぶ桁違いの大きさの数量単位を指します。
さらに阿僧祇の前に「3」が付いているため10の56乗を3倍にしなくてはなりません。
これらの要素を集めて分かることは、法相宗の修行にかかる時間は途方もない年月であるということです。
すなわち、仏の悟りには気が遠くなるほどの年月が必要であることが分かるでしょう。
慈恩大師の著書である「西方要決」によれば、今の時代は三乗の教えを学ぶことができ、迷いを断ち切ることができた者が阿弥陀仏に救われると書かれています。

法相宗には葬儀がない!

律宗や華厳宗、そして法相宗を含む現存の奈良仏教系の3宗派は、葬儀を執り行いません。
この理由は、法相宗を含む3つの宗派がいずれも経典や教えの研究を目的とした学問宗であるからです。
そのため、葬儀に限らず祭礼などの儀礼を一切行わないことを特徴としています。
布教や信仰を目的とした儀式が行われ始めたのは、天台宗と真言宗の平安仏教の時代になってからです。

また、法相宗には通常の仏教では存在する檀家制度もありません。
そもそも、檀家制度が施行されたのは江戸時代(1612年)のことであり、奈良仏教自体がそれ以前から存在するためです。法相宗を含む3宗の信者のために葬儀を行う際、他宗の僧侶に依頼することとなります。

もちろん、依頼した先の宗派の風習やルールに沿った葬儀を執り行うことが通例です。
もし法相宗を信仰している親族や家族が亡くなられた場合、どの宗派に依頼するか、その際の段取りはどのようなものかなどを、親族や葬儀社と相談したり確認する必要があります。
お墓についても葬儀を行った宗派の墓地や、宗派や宗旨不問である霊園に埋葬することになる点も覚えておいてください。

ちなみに江戸時代に檀家制度が登場したとはいえ、もともと布教や信仰を目的とした儀礼を行っていたため天台宗と真言宗、つまり平安仏教に関しては檀家制度は存在しています。

法相宗は学問や考え方に重きを置いた宗派!

奈良仏教の1つである法相宗は、インドの唯識論の思想を基に、7世紀の唐にて開創された宗派です。
653年に法興寺の僧・道昭が唐へと留学し、帰国して広めたのが日本における法相宗の始まりとなっています。

大本山を奈良県の薬師寺と興福寺に構える法相宗は、布教や信仰を目的とし儀式を重んじる平安仏教とは異なり、仏教においては珍しく哲学的な考えを重視する学術的な宗派です。
清水寺における北法相宗は、奈良における南都法相に対しての北都法相であり、日本国内においては法相宗とは遜色はないとされています。

法相宗を含む奈良仏教系は檀家制度よりも前の時代に誕生したため、葬儀や法要といった儀礼的なものはもちろん、檀家制度も敷いてはいません。
そのため、もし法相宗を信仰している家族や親族が亡くなった場合においては、葬儀は別の宗派の僧侶に依頼しなければならない点を覚えておきましょう。

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